宗教とミステリ

   宗教なんていうセンシティブな話題に触れるのはちょっと気が引ける部分もあるのだが、ミステリについて思いを巡らしてゆくと、どこかに宗教の影がちらほら見える時がある。

 

今日は、キリスト教仏教を例に挙げ、ミステリに与える影響を考えてみたいと思うが、決して特定の宗教や宗派を貶めることが目的ではなく、あくまでも推理小説というフィクションに宗教が与える影響の大小の考察が目的である。

 

 

お墓の違い

   欧米ではキリスト教徒が多く、死者の復活の際に元の体を残しておく必要があることから土葬が多い。一方で仏教国である日本では、仏教の開祖である釈迦が火葬されたという言い伝えから、火葬が一般的である。(もちろん他の理由もある)

   ちなみに総務局の統計を見てみると、平成27年度の埋葬数(土葬)はたったの0.03%だった。この葬儀の違いは、ミステリ内ではかなり大きな違いだ。

   海外ミステリでは、よく死因に不審な点が見つかった場合、一度埋葬された遺体を発掘し再度解剖する、という事例が数多く登場する。この方法が、火葬が一般的な日本では絶対にできない。つまり、死亡診断書が出て、死体を焼くところまでいってしまえば(最短で2日ほど)、土葬よりも火葬の方が殺人はバレにくいと言えるのではないか。

   向き不向きという話ではなく、逆にバレやすい土葬の方が(進行に支障がなく)ミステリには使いやすいんじゃないかと思う。

 

 

 

死生観の違い

   キリスト教の死生観は、「運命」や「神の思し召し」といったふんわりしたワードにくるまっている。生死が全人類に等しく訪れる平等なものとしながらも、「運」や「神のご意志」によって命が奪われる(魂の救済)ことには、なんの疑問を持つことがない。

   一方、仏教の死生観はキリスト教と全然違う。それが輪廻転生である。生前の業の善し悪しによって、転生先の境遇が変わり、それを無限に繰り返す(輪廻する)という世界観だ。

 

   これがどうミステリに影響を与えるのか。まず殺人者の気持ちを考えてほしい。もちろん殺人が悪行だと知っており、一定の制御心は働くが、キリスト教には罪を犯しても「悔い改め」が存在する。一時の激情で犯した殺人でも、悔い改めの心を神に示し「赦し」を得られれば、現世で罪を償うことができる、という犯罪者にとっては受け皿が用意されている。

   しかし仏教ではどうだろうか。現世での罪深い行動がそのまま転生先の境遇に影響してくるため、犯罪者のブレーキはキリスト教よりも強いのではないだろうか。さらにもし一度目の殺人が露見しなかった場合、「どうせ来世は地獄なんだから」と開き直って罪を重ねる可能性も高いと思う。

 

   次に被害者遺族の立場を考えてみよう。もしキリスト教徒の登場人物が、なんでもかんでも「神の思し召し」と考えてしまえば目が曇るのはあたりまえである。そして犯人が逮捕されたとしても、犯人を「赦す」という愛を示さなければならない。これは辛い。

   一方仏教では、犯罪者を憎む気持ちがキリスト教よりも強いと想像できる。「犯罪者を地獄へ送ってやれ」という強い思いが事件を早期解決へと導くのではないか。もしかすると、日本人の多くの心の中には、こういった仏教的な精神が根付いていて、その影響で海外ミステリに馴染めないのかもしれない。

 


まとめ

   見返してみると偏見の塊と化した、誤解を招きそうな描写が多々見受けられるが、“宗教について”ではなく、あくまでも“宗教がミステリに与える影響について”の考察である。もちろん、前提として人の感情や思いは宗教に宿るのではなく個人に宿るものであり、個人の傾向や思想と宗教を関連付けて人格や性質を決めつけたり、侮辱するつもりは毛頭ない。

   ちなみに私自身は幼少期は強制的に聖書を読まされる程のキリスト教家庭で育ちながらも、大人になってからは完全に遠ざかり、今では平気でお墓に手を合わせたり、嫁の実家の法要にも喜んで参加するほどの中途半端さである。

 

では!